空手を続ける価値はどこにあるのか
もう少し空手については記事を投稿する予定にしていますがその前に、ここで非常に大切なことをお伝えしておきます。
私が空手をやるようになったのは、偶然の重なりであったことはすでにお伝えしました。
その経験をここで語ったところで、空手をやってみたいと思っている人はかなりの少数派ですので、記事としても読まれることもほとんどないので意味ないんじゃないって思われるかもしれません。
実際に私も他の空手について書かれているサイトを見てはいますが、空手(武道といってもいいです)のよさをこうやってネットで積極的に発信されているかたはかなり少ないです。
なんとなく思いますが、ネットと武道はあまり相性がよくないのかもしれません。
ネットの記事をみて武道をやる気になったという話は私自身誰からも聞いたことがありません。
上下関係が厳しく、稽古も厳しい武道と、チャラチャラしたことがあふれているネットでは当然にして仲良くなりにくいという感じでしょうか。
そういう意味ではこの記事もあまり意味をなさない可能性も高いわけですが、それでもこのサイトでは伝えたいことがあるので書いてます。
それは、空手をやったからこその貴重な体験ができたからなんです。
何だと思いますか?空手が強くなったとか、厳しさに耐えたとかそんなカッコいいことではないんです。
「自分の成長を体感できた」からなんです。
成長を体感できるというのは空手でなくったってもちろん出来ます。
楽器ですと、ギターやピアノで弾けなかった曲が弾けるようになった。
確かにそういったことで成長を確認できます。
苦労すればするほどその喜びも大きく、達成感も大きいでしょう。
それとどう違うんだってことになると思いますが。
空手では少しづつ出来るようになればいいと教えられたという話をしました。この考えは師範によるとは思いますが、少なくとも私はそう教えられました。もちろんいい歳をしてから入門したというのもあるとは思いますが、他の道場生にも同じ話をしていたので師範の基本的な考えだと思います。
急に強くならなくていい、そんなの出来ないし、前にさえ進んでいればいいんだ。
強くなりようがない私としては、これを信じてやるしかないわけです。
そうやって稽古をしているわけですが、まあきついと感じることはあっても、自分が上達している、強くなっているという感覚はまったくありません。
そもそも楽器のように、この曲が弾けるようになったという明確なものはあまりありません。
例えば回し蹴りというのがありますけど、教えてもらう前から、やれと言われたら私だってできます。
ただし、パワーがそれでは伝わらないと矯正され練習を積んでいくわけですが、もともと全く出来なかったものが出来たというわけではありません。
積み重ねが形としてわかりにくいんです。空手に限らず、そういうことは多いと思いますが。
ところが、その練習してきたことがどのように自分を変えているのかを、明らかにわかるということがあったんです。
それは、新しく入門してきた人を相手させてもらったときです。
つまり、彼は入門したての自分とまったく同じと考えていいので、昔の自分と相手しているわけです。
そこでわかったのは昔に比べて進歩していた自分でした。
その相手が自分と同じような年齢であろうがなかろうが、それは明らかにわかるんです。
まさにこれです。過去の自分を見ることが出来るし、また自分の成長を相手から直接体を使って教えてもらうことができる。
これは個人的にはかなりの衝撃でした。まだまだな努力でも前を向いていると確実に進歩するんだと。
この経験こそが、今のサイトの1mmだけ進めばいいんだよというスローガンの原点となっています。
遅れて入ってあまり向いてないかもとまで思った空手ですら、自分の進歩を体感できたわけですから、他のことで進歩しないわけがない。
努力は報われるんだとまで言う気はありません。目標が高ければ、その程度の努力では届かないかもしれませんし不運が影響して結果が出ないこともあるでしょうから。
ただ言えることは努力すればかならず前に進めるということです。